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YOJI BIOMEHANIKA インタビュー/LOUD141号

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VARIOUS ARTISTS
GIGA -tech-dance extreme
mixed by yoji biomehanika
(JPN) ARIGHT'S / ARCC-017


YOJI BIOMEHANIKA
テック・ダンスを標榜する最新MIX CDリリース記念
栄光への軌跡をたどる二万字インタビュー

 イギリスのクラブ系専門誌、DJ MAGの“DJランキング100”に、ただ一人名前を連ねる日本人、ヨージ・ビオメハニカ。彼は、数々の伝説と武勇伝をシーンに刻み付けてきた。音楽が好きな人だったら、彼の名前を必ずどこかで一度は聞いたことがあるはずだ。しかし、誰も本当のヨージさんの姿を知る人はいない。
 今回LOUDは、日本における久々のミックスCD、『GIGA』のリリースを記念して、彼に世界的アーティストになるまでの道のりを赤裸々に語ってもらった。誰もが一度は夢みる世界への道、その栄光を手にした男の人生を読んでみてください。インタビュアーは、のオーガナイザー、久保憲司です。

01_YOJI:ライジング
——生まれた場所はどこですか?
「そこから?! そんなの、みんな知りたいかな?」
——もちろん、みんな知りたいですよ。ヨージさんは、ミステリアスな存在ですから。
「ふーん。神戸だよ」
——ヨージさんはマンガもプロ級の腕前ですよね。一番初めに興味を持ったことは、絵を書くことだったんですか?
「絵を書き出したのは、小学生の頃かな。その頃、僕の7歳年上の兄が言うには、僕はテレビでかかっている音楽の、主旋律じゃなく裏に鳴っている伴奏のアンサンブルを口ずさんでいたそうだ。で、それに気づいた兄が、“コイツは凄い、音楽の才能がある。音楽の道に行かしてあげないといけない”と、両親に言ってくれたらしい」
——それで、ヨージさんはピアノが弾けるわけなんですね。
「ピアノ、弾けないよ。兄は親にそう提言してくれたけど、ウチの親は、僕に決してそんな教育を与えてはくれなかった(笑)」
——エッ。でもその7歳年上のお兄さんも、今は名門大学の教授じゃないですか。アカデミックな家庭に育ったんじゃないんですか?
「全然。兄も、親が大学に行かしたとか、そんなのじゃないよ。自分で努力したんだ。ウチの家は全然金持ちじゃないし。話は飛ぶけど、バンドをやっていたときも、譜面も何も読めないから、全部耳で聞いてコピーしていたよ。コードの音も一音ずつ聞き取って、“こうかな?”とか、考えながらやっていた」
——すごいですね、コードを分解して聴き取れるわけですね。普通できないですよ。
「そうやな。分解して聴き取れるというのは、オレの才能かもしれないな(笑)」
——不思議ですね。先祖に音楽にたずさわっていた人がいたんでしょうか?
「どうやろね。ウチの亡くなった親は、“ウチは庄屋やった”と言ってたけどね(笑)」
——庄屋ですか。やっぱり、お金持ちじゃないですか(笑)。
「死んでから分かってんけど、全部ウソやった(笑)」
——では、絵も習ったわけではないんですね。
「全部見よう見まね。音楽もそうやけど、昔から何かをつくって人をびっくりさせたり、喜ばせたいというのがあったみたい。小学生の真ん中くらいからな、紙芝居をつくって、近所の子を集めて見せたりもしてた」
——レコードをめくる前に、紙をめくってたんですね(笑)。でも、僕もそんなことをしてましたけど、ヨージさんのマンガは別格ですよ。普通、そんな才能ないですよ。
「そうかな。で、そんなことをしていたら、近所の絵の得意な子らが集まってきたから、三人くらいで雑誌をつくったりもしてた。当時はコピーとかないから、一冊しかつくれなかったけど、それを近所の子らが回し読みで読んでくれてた」
——まさに、手塚治虫の初期じゃないですか(笑)。


02_YOJI:音楽への目覚め(1)
——どうして絵から音楽に興味が移っていったのですか?
「兄が受験勉強でラジオを聴くようになったから、僕も自分のラジカセが欲しくなって、親に買ってもらってね。ラジオを聴いてたら、ハードロックがかかったわけ。“何じゃこりゃ。よく分からないけど、むっちゃくちゃかっこいいな”、と。そのとき、自分の中に“ロック”というキーワードがインプットされたみたい。それからは早かったよ。でも、そこで僕はハードロックに行ったわけではなく、なぜかプログレに行ったんやけど(笑)」
——しかもヨージさんは、プログレでもELPとかじゃなくて、イタリアやドイツの変なユーロ・プログレに行ったんですよね?
「あー、それは多分に“ロック・マガジン”(久保憲司註:阿木譲氏がつくっていた、関西発信のアンダーグラウンド・ロック雑誌。画期的な雑誌だった。テクノ・ポップという言葉もつくった)の影響だね」
——またそこがヨージさんらしいですね。普通は“ミュージック・ライフ”とかでしょう。
「もちろん、ミュージック・ライフとかも買ったことあると思うよ。でも、当時テレビで“ポップス・イン・ピクチャー”という番組をやっていてね」
——ありましたね(笑)。そこに阿木さんが黒いサングラスをかけて出てきて、暗い音楽を紹介してましたよね。
「うん、暗い音楽(笑)。でも阿木さんが紹介する音楽って、非常にかっこよかったんよ」
——今のヨージさんの音楽にもつながりますね?
「つながる、つながる。阿木さんの存在なくして、今の僕はないかもしれない。僕の音楽を聴くと、阿木さんは“私のやりたい音楽とは違う”と怒るかもしれないけど」
——いや、阿木さんは、それ聞いたら泣いて喜ぶと思いますよ。阿木さんに影響された人は、そんなに多くないと思いますから。
「でも、プログレは大好きだったけど、よく分かっていなかったと思う。何かよく分からんけどかっこいいな、と思っていただけ。ぼくの周りには、ダムタイプ(世界的なパフォーマンス集団)とか、アート系の人が多いんだけど、彼らに“僕は、絵でも、パフォーマンスでも、現代音楽でも、プログレでも何でも、論理的なことが浮かばない。全部デザインにしか見えないし、デザインにしか聞こえない”と言ったことがある。そしたら、一人の人が“それでいいよ”と言ってくれて、それから吹っ切れた」
——僕はそれが、ヨージさんが音楽的知識がなくても和音を解読できることと、関係してるような気がします。
「美術館とかギャラリーで、ウンチク言っている人、いるやん。でも僕には、絵を見ても、そういう風には思えなかった。デザインにしか見えなかった。これ、“かっこええな”とか。たぶん、そこはあんまり賢くないんやと思う。その頃は“表現”という言葉がとっても嫌いで、ぼくは常に“象徴”と言っていた。でも、誰もそういう僕の想いを理解してくれないから、“運動を起こしたろうか”とまで思ってたんよ(笑)」
——本当の意味での象徴主義ですね(笑)。
「“ロックとかプログレは表現じゃない。何かを象徴しているものであって、この作品には言葉はない”と、俺はいつも言っていた」
——ウォーホルも、そういうことを言ってましたよね。
「誰?」
——アンディ・ウォーホル。
「あ、そうか。あの人もそうやな。それをくつがえそうとしとった人やもんな」

03_YOJI:音楽への目覚め(2)
——その頃のドイツ系プログレは、デザインもシンプルで、オシャレで、今のヨージさんとつながる感じでしたね。象徴的でしたよね。
「そうそう」
——そういうバンドの難解なギター・ソロを、耳コピしていたんですよね?
「ゴングのスティーヴ・ヒレッジのギターとか、ものすごくかっこよくて、むちゃくちゃコピーしたよ」
——そのスティーヴ・ヒレッジも、今やテクノですからね。
「そうやな。俺びっくりしたよ。そんな人が身近なシーンにおると思わなかったから」
——スタインバッカーのギターを弾いてはりますよ。
「ホンマ!(笑)」
——スティーブ・ヒレッジも、何も考えてない感じがしますよね。
「みんな考えてないと思うよ。やっぱ感覚やと思う」
——ヨージさんと似ているような気がします。でもヨージさん、何も考えてないと言うけど、むちゃくちゃ考えていると思いますけどね。
「考えているのかな...。話は戻るけど、阿木さんみたいに、音楽を言葉に変えられる才能のある人がいると、音楽を人々に伝えやすいよね」
——妄想や想像を広げていけますね。
「そういう人たちは、妄想家が向いていると思う(笑)」
——僕もそうなんですけど、音楽ができないから、そっちにいっちゃうと思うんですよ。まあ、それはいいとして、ヨージさんは、その後プログレからパンクに行ったわけですか?
「パンクに行く前に、ルー・リードとかを好きになった。僕にとって、ルー・リードは本当に大きな存在やった。ルー・リードに『ベルリン』というアルバムがあるやろ」
——暗いやつですよね。
「僕はルー・リードの生き様とか全然知らないんだけど、あのアルバムを聴いたとき、“なんてシンプルなのに美しいアルバムなんだろう”と思ったね。イメージといい、アレにはやられたな」
——凄いですね。僕には全然理解できないアルバムでした。ヨージさんは感覚で聴くから、美しいと感じられたんでしょうね。普通の人は、ルー・リードの最初のバンド、パンクのルーツとされているヴェルヴェット・アンダーグラウンドの方を、ロックンロールで分かりやすいから、好きになるんですけど。
「僕は、全然ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの方は好きにならなかったな」
——『ベルリン』の美しさは、今のヨージさんのヴィジュアルや音楽にも受け継がれていますね。
「どうなんやろう? ノスタルジックな部分では影響されていると思うけど。あと、ほとんどの人が“ただの油くさそうなオッサンやん”と言っている、ロキシー・ミュージックのブライアン・フェリーからも非常に影響を受けたよ。ブライアン・フェリーは、この前来たとき観に行った。ジャズ・アルバムを出した時期で、しかも来日がクリスマスの頃だったから、一曲目がクリスマス・ソングの弾き語りだった。かっこ良すぎる、やられたな(笑)」

04_YOJI:パンク時代
——ルー・リードやブライアン・フェリーに影響を受けたというのは、今のヨージさんの美学に通じることなので、よく分かります。でも、ヨージさんが本格的に音楽活動をするきっかけとなったのは、やはりパンクだったんですよね?
「どうなんやろう。そこはクエッションなんやけど。僕はパンクとは違ったから。パンクには行かなかった。僕が行ったのは、ノイズ(久保憲司註:スロッピング・グリッスルらを代表とする音楽。パンクを通過したこれらの現代音楽は、当時のシーンにはもちろん、現在のテクノにも多大な影響を与えている)やったから」
——おぉー。そうですよね。ラフィン・ノーズのチャーミーさん(久保憲司註:30年前、パンクが海外から入ってきても、日本には根づかなかった。ラフィン・ノーズは、そんな時代遅れになりつつあったパンクをオーバーグラウンドな存在にし、日本に定着させた画期的なバンド。海外では後に、メンバーのチャーミーさんの方法論に従った感じのサウンドで、ランシドやグリーン・デイが世界的成功を収めている)も、もともとはノイズですもんね。チャーミーさんに誘われて、ラフィンに入ったんですか?
「チャーミーとは友達で、メンバーが足りなくて音合わせも何もできないからということで、練習のために手伝いで参加しただけなんだ。チャーミーが、“ベースくらいできるやろ”と(笑)。僕はベースを持ってなかったから、友達に借りたりしてたんよ」
——じゃあ、ヨージさんが始めたバンド、ヨーランの方が先なんですか?
「そうそう。でも、チャーミーの持っているパワーや、オシャレなところには影響されたりしていたから、ズルズルと参加していたな」
——でも、ヨージさん、ももともとオシャレじゃないですか。
「違うねん。その頃のチャーミーは、DCブランド(久保憲司註:今でいうデザイナー・ブランド)でキメていて、むちゃくちゃかっこよかったんよ(笑)」
——ラフィン初期の頃のヨージさんは、ゴス、ポジパン(ポジティブ・パンク)系ですよね。写真を見返してみたら、むちゃくちゃかっこよかったですよ。あの頃、全世界でもあんなにかっこいいゴスの人はいませんでした。
「そうやねん、ぼくだけニュー・ロマンティックだった(笑)」
——あー、なるほど。
「あの頃はお金もなかったから、リサイクル・ショップみたいなところでジーンズを買って、自分らでつくり直したりしていただけなんやけどな」
——チャーミーさんは、もう一回パンクを日本でやったらどうなるんだろうということを考えていたんでしょうか?
「そうやろな。それと、ラフィン・ノーズのファンには悪く聞こえるかもしれないけど、チャーミーはファッションの大切さをよく分かっていた。音楽に付随しているファッションが、どれだけパワーを持っているかということをね。パンクというモードを流行らせたかったんちゃうかな」
——セックス・ピストルズも、もともとはマルコム・マクラーレンというブティック経営の人が仕掛けたんですもんね。
「そうやな。あいつはマルコム・マクラーレンみたいな人やったんちゃう(笑)」


05_YOJI:ニューロマ、そしてヨーラン時代
——ラフィンとヨーランは、並行してやってたんですか?
「そうそう。で、僕はもっとエレ・ポップみたいな方向に行っていた」
——デペッシュ・モードとか、そんな感じですか?
「デペッシュ・モードは好きにならなかったな。僕は、常にみんなと違うものを引っぱりだしてくるのが好きだから(笑)。当時、フレンチ・パンクってあってね」
——プラスティック・ベルトラム! イギリス以外から出た初のパンク。かっこよかったですね。
「オシャレやったやろ。その辺の人たちが、だんだんとエレクトロニックになっていってね。それが、むちゃくちゃかっこよかった」
——あと、テレックスとかですよね。趣味がいいですね。今、フランスからこの辺に先祖帰りした人たちが、たくさん出てきていて、面白いですよ。
「そうなんだ。で、この辺の人たちがシンセサイザーをどんどん使うようになったから、僕もそれにひかれて、使うようになった。それにヨーロッパでは、日本みたいにライブハウスとクラブが区別されてなくて…」
——そうですね。ヨーロッパでは、コンサートの後、その会場がクラブになったりしていましたよね。
「カルチャーとして一つにつながってたでしょ。コンサートの後、一晩中踊るみたいな。あの頃、海外にはそういったクラブ・ムーヴメントがちょっことあって」
——ボーイ・ジョージやスティーブ・ストレンジなどが出てきた、ニュー・ロマンティックのムーヴメントですね。
「そうそう。それで、ダンサブルなものがかっこいいと思えるようになってきたから、どんどんダンスなものをつくるようになった」
——その頃のヨーランには、たくさんのメンバーがいたんですよね。
「いろいろやったよ。最初は僕一人で、バックは僕がつくったカラオケ」
——ステージにはヨージさんとオープン・リールだけですね。かっこいいですね。
「それで、生でもやりたくなって、バック・バンドをつくってしばらくやっていたりもした。ヨーランを止めた理由は、英語で歌うということに限界を感じたからだね。ヨーランの最後の方は、スタジオに英語の先生を呼んで、“ここはもっとエモーション入れな、ダメ”とか言われながらやっていたんだけど、どうエモーション入れていいかが分からず、理解できないのなら止めようと思ったんだ」
——その頃、イギリスに行って、もっとしっかりとしたプロデューサーについて、ちゃんと録音をやっていたら、世界的に売れていたかもしれませんね。
「当時はそこまで考えてなかったからな。世界的に売れたいとか、そういうのじゃなかったから。英語の音楽で育ったから、英語でやっていきたいという、自然な考えだったね。急に日本語の歌を歌えと言われても、できなかった。それに、日本語の歌って、なんてかっこわるいんだろうって、ずっと思っていたから」
——ヨーランの最後のライブに、コロンビアかどこかの日本のレコード会社の人が“契約しませんか?”って来るんですよね。でも、ヨージさんは“もうバンドがないんですよ。今日で解散なんですよ”と言った。僕は、これがヨージさんの、人生の中で唯一の挫折なのかなと思うんですけど、どうなんでしょう?
「あぁ。それはそうかもしれないな。あれは大きな挫折やったな」


06_YOJI:初のDJ
——そこから、なぜDJを始めたんでしょう?
「僕は音をつくるのが好きで、その後も音はつくっていた。ヴォーカルなしのインストゥルメンタルをね。で、家の近所にクラブがあったから、友達を集めて、遊びでDJを始めた。それがスタートかな」
——自然な流れで始めたんですね。落ち込んだからレコードまわそうとか、そういうのじゃなく。
「そうだね。僕は、とにかくシャレたことは何でもしたい人やったから。DJというのはかっこいいな、と思ったわけ(笑)」
——でも、その頃、かっこいいDJとかいたんですか?
「えーとね、京都にイマイ・コウジというDJがいた。名前は忘れたんだけど、その頃名古屋にできた大きなクラブで、DJチャンピオンになった人。そこのクラブで、イマイさんがDJをやって、僕がライブをするというセットを何回かやっていた。ヨーランも後期の頃は、完全にダンス・オリエンテッドになっていたから」
——ヨーランがダンス・オリエンテッドになっていた頃は、どんな音だったのですか?
「いろいろ、ごっちゃまぜ。ヒューマン・リーグみたいなのもあり、フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドみたいなものもあり、みたいな」
——ヨージさんのフランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッド、むっちゃ聴きたい。かっこ良さそうですね。
「まだクラブがちゃんとない頃やから、マハラジャ(久保憲司註:日本のバブルの象徴ともなった、金ピカのディスコ。日本のユーロ・ビート発祥地)とかで、イマイさんと組んでライブをやっていたよ。一晩二回セットみたいなライブをやっていた(笑)。でも、マハラジャは合わなかったから、すぐに辞めたけど(笑)」
——イマイさんは、どんな人だったのですか?
「ものすごい人でね。京都にクラブ・トゥルーというクラブがあって、それをイマイさんがプロデュースしていた。後期ヨーランが所属していた事務所が、そこのアート・ディレクターみたいなことをしていたから、僕は関係していなかったけど、よく遊びにいって、“このクラブかっこいいな”と思っていたね。そして、音的にもどんどんイマイさんの世界にハマっていった」
——ヨージさんはナチグロ(久保憲司註:ヨージさんが子供の頃に放映されていたCMで、黒人の出演者がナチグロと歌いながら、踊るというもの。それがあまりにもダサく、ヨージさんはそれが原因で黒人音楽拒絶症になる)の、ファンキーなものってダメじゃないですか。ハウスは大丈夫だったのですか?
「そうやねん。でも、ソウル・II・ソウルとかは、初めて聴いたときから素直にかっこいいと思ったよ。で、レコードを買いあさるようになって、イギリスのアシッド・ハウスとか、あっちの存在を知ってしまうわけよ(笑)」
——ボディ・ミュージックとかは?
「あっ、そうや。アシッド・ハウスを知る前に、ボディ・ミュージックではなくて、ベルギーのニュー・ビートとかにハマった。ベルギーのサブウェイというレーベルにどっぷりやった」
——ロード・オブ・アシッドとか、よかったですよね。
「そうそう。かっこよかった」
——ヨーランの音もそんな感じだったのかな、と思ったのですが?
「うーん、その頃は聴くばっかりやったかな」
——イマイさんも、そういう音楽をかけてたんですか?
「違う、イマイさんはハウスにどっぷりやったな」
——ヨージさんだけが、ヘヴィーでダークな音楽をまわし始めんですね。やっぱり変ってますね(笑)。
「そして、小さなクラブで、イベントとかをちょこちょこやりだした。でも、やっぱりニュー・ロマンティックというか、デカダンスたっぷりのクラブをつくりたかったから、自分でクラブをつくった」


07_YOJI:伝説のクラブ、“ゴースト”
——そのクラブが、“あのヨーランがどこかの山の中でクラブ始めたで。一万円払ったら、車で迎えに来てくれて、エクスタシーくれるらしいで”と、噂になっていたクラブですね。
「ハハハ。エクスタシーなんか配ってない。でもやっていてもおかしくない環境やったけどね(笑)」
——ヒギリのママ(久保憲司註:間寛平さんからヨージさんまで、関西でこの人のお世話になっていない人はいないという、関西クラブ・シーンの重鎮、ドン)が、ライフというクラブをやってた頃の話ですよね。
「そうそう。天宮志狼(久保憲司註:これまた関西の重鎮DJ。アシッド・ハウスとセックス・ピストルズを誰よりも早くミックスしたことで有名)が、ラブホテルの地下でサイキック・タブーというのをやっていた頃だね。そういうのにも影響されていたのかな」
——古い話ですいませんが、僕らがパンク/ニュー・ウェイブの頃、ヒギリさんがやっていたパームスが全てのクラブの理想でしたよね。僕は、その頃に東京のピテカントロプスとかへ行っても、パームスの方が全然かっこいいし、面白いと思ってました。
「そうやな。パームスは、ロンドンのライブ・シーンとクラブ・シーンが上手く噛み合ったような所やったな。僕は、その当時は神戸のアルバ・クラブって言うのに通っていた。そこもニュー・ウェイブ・ディスコで、ブリティッシュ・エレクトリック・ファウンデーション(BEF)とかがかかっていて、かっこよかったよ。ラフィンも、ヨーランも、そこでライブをしていた」
——ヨージさんが始めたクラブは、何という名前だったのですか?
「ゴースト」
——なぜ離れた場所でやっていたんですか?
「誰やったっけ? イギリスのドクターなんとかっていうアーティストが、バスに乗せて変なところでパーティー&ライブするというのをやっていて、そういうのをしたかったから」
——ドクター&ザ・メデックスですよ。サイケデリック・ロックの。
「そんな名前やったっけ? ある知り合いに、“この建物、どうせ潰すから、潰すまでのあいだ好きにしていいよ”と言われてね。造形アーティストとか、いろんな友達のアーティストに参加してもらって、みんなで中を改造して、クラブにした。もちろん営業許可なんて下りないから、内緒にしてやっていた。雑誌にはたくさん載っていたんだけど、地図は載せずに電話番号だけを載せていた(笑)。今こんなん言ったら、捕まるんとちゃう?(笑)」
——捕まんないでしょう(笑)。
「で、お客さんから電話があったら、お迎えのドライバーが迎えに行ってやってた(笑)」
——凄いですね。
「もちろん、そんなんだから、人とか来なかったよ」
——そんなことで、エクスタシーを配っているという噂になったんでしょうね(笑)。
「配ってないよ。もっとアカデミックな感じやった。集まってきたのはダムタイプや京芸の人たち。藤本由紀夫という、大阪芸大で教えていた、サウンド・オブジェのアーティストが、“イベントをやりたい”と言ってきたりもした。そのイベントでは、来たお客さんにマイクロスコープのようなメガネを渡して、ストロボの光が入ると、その残像の中に文字が浮かぶというようなことをやった。むちゃくちゃ面白かったよ」
——洗脳マシーンじゃないですか(笑)。
「そうそう。踊っているときに、ストロボが光るとメッセージが現れるという(笑)。その後、ダムタイプ関連のメンバーが、ダイヤモンド・フォーエバーというゲイ・ナイトをやりだしてね」
——今もメトロとかでやっているやつですよね。
「そうそう、それに誘われた」

08_YOJI:プロDJの道へ
——この時代もメイクはしていたのですか? ヨーランやラフィンのときのような。
「していたよ。ダイヤモンドは、初めは大阪のパラノイアという、倉庫を改造したクラブでやっていて、その辺から彼らと行動を共にするようになった。そこからやな、DJとして本格的に活動するようになったのは。自分でもいろんなクラブに行って、アプローチするようになった」
——まわさせろ、と。
「違うよ。イベントをプロデュースさせろ、という感じ。ちょこちょこいろんな事やっていたよ。あと、阿木さんがM2というクラブを始めて、そこでイベントをやったりしていた」
——へぇー? ヨージさんがDJとして最初に成功するのは、クー(久保憲司註:大阪の伝説のクラブ)でじゃなかったんですか?
「違うよ。クーはもっと後だね」
——これは、いつくらいの話なんですか。1988年頃ですか?
「そうやな、'89年とかかな」
——阿木さんもハウスにハマっていたというのが面白いですね。
「そこでDJやっていた子とかは、今でも友達だよ」
——クーでの成功は、いつ頃だったんですか?
「'92年頃かな。T99の「ANASTASIA」が流行っていた頃。当時ハードコア・テクノと呼ばれていた音が、元気だった頃だね。そういった音楽を僕が一番最初に紹介したということになっているから」
——ジュリアナ東京のジョン・ロビンソンより早かったわけですね。
「たぶん、ずっとずっと先を行っていたはずやで」
——ニュー・ビートとかが好きだったら、そのままこの辺の音楽をかっこいいと思いますもんね。
「そうやろな」
——天宮志狼さんは、もっとハウスでしたもんね。
「もっとシャーマンな(笑)」
——それやのに、志狼さんが土曜日だったんですよね。
「そうそう。僕は、そんなにいい曜日は貰えなかった。木曜日とか(笑)。木曜日にレイヴな音をやろうとしていた」
——でも、おもっきり入ってましたよね。木曜日なのに2000人とか。
「1500人くらいじゃないかな。一度、2700人くらい入った日があったけどね。それは僕の誕生日やった(笑)。あれが記録やな」
——今から考えたら、すごいクラブでしたよね。名前もイビサのクー(久保憲司註:現在のプリビレッジ)をパクっていて、内装も思いっきり一緒でしたもんね。画期的にかっこいいクラブでした。
「つくる前にヒギリさんがイビサに行って、勉強してきたんだと思うよ。ヒギリさん、今考えても凄いと思うよな」
——そうですね。


09_YOJI:初のレコードとHELLHOUSE設立
——ヨージさんがレコードをつくりだしたのは、この頃ですよね?
「そうだね。'92年くらいかな。最初のレコードは、600枚くらい自分でつくった「PARTY IS MY LIFE」。'93年くらいには、ハードコア・テクノに飽き出していて、ジャーマン・テクノなどにハマっていた」
——ジャム&スプーンなどにですね。
「そうそう。それでドイツにデモ・テープを送ったら、ドイツのDOS OR DIEというレーベルから、僕の2枚目のレコード「RENDEZVOUS DE TELEPATHY」がリリースされた。このとき、“オレの音、海外でイケる”と思ったね」
——そして3枚目に、ポール・オークンフォールドが感動したということですね。
「そうそう、それが「REAL NIGHTMARE」だった」
——レーベル、HELLHOUSEを立ち上げたのは、その次のレコードのときですか?
「いつやろ? そのあと、3LANKAという違うドイツのレーベルからもリリースしたね。日本のインディ系レーベルからも1枚か2枚出した。そうしたら、イギリスのウィンドウ・ソングという、ダンスものを世界輸出している会社のツカモトさんから、突然電話がかかってきて」
——ウィンドウ・ソングは、ラフ・トレード傘下のディストリビューター内にある会社ですよね。
「そうそう。そのツカモトさんが、“ヨージさん、人のレーベルから出すよりも、自分のレーベルを立ち上げてリリースした方がいい。人のレーベルにいい音源を与える時期は終わったよ”とアドバイスしてくれたから、イギリスでレーベルを始めることになった」
——普通ですよね。でも、ヨージさんはそれを知らなくて始めたんですね。
「うん、何も考えてなかった(笑)。それで、HELLHOUSEの1枚目「GO MAD」をリリースした。を始めた頃と違うかな」
——そうでしたか。の頃じゃないんですか?
「忘れてしまったな(笑)。HELLHOUSEは、まだディストリビューションもしっかりしていない、ヒヨッコのレーベルやったから、「GO MAD」は1000枚も売れなかった。でも、DPという大きなレーベルがあって、そこが“もう一度ウチから出せや”と言ってくれて、リリースした。だから「GO MAD」は同じものが二回出ている(笑)」
——へぇー。それで、売れたんですか?
「そんなたいしたことなかったよ(笑)」


10_YOJI:OZAKA 3000時代
——は、いつやっていたんですか?
「クーがなくなる日にをスタートした。だから、クーの客が全員来たよ。もちろん全員入れなかった。でも、あの小さなハコに650人も入った」
——というネーミングも、またオシャレですよね。
「それ、ずっと悩んでつけた名前なんだ。みんなは、大阪のヨージと思っているかもしれないけど、生まれが大阪じゃないから、実は大阪に対して地元意識がない。だから、大阪を見る目も一歩引いていた。大阪は何かベタやなと思っていた」
——ヨージさんの地元、神戸の方がオシャレですもんね(笑)。
「根拠ないけど。でも分かるやろ」
——分かります。正しいと思います。
「東京も、大阪と同じように客観的に見ていて、何でいつも東京が情報の発信源なんだろう、と思っていた。海外から入ってくる新しいモノは、みんな東京を経由して発信されて、地方都市に分配されていく。でも僕は“東京は実は何も発信していない”と思った。ただ、大阪は東京の次に大きな都市だし、そうやったら大阪という名前を前に出した方がかっこいいのかなと思って」
——デトロイトでも、シカゴでも、都市がブランドになってますもんね。
「そう、そう、そういう感じ。それでロンドンに“ユーロビート2000”というテクノのパーティーがあったから、大阪はもっと未来まで行こうと思って“3000”とつけた。でも少し恥ずかしいから、“ozaka”と濁らせた。
——少し濁った感じが、ヨージさんらしくってかっこよかったですよ。
「“何で濁らせるの?”とも言われたけど、外人が大阪を発音するときは“ozaka”になるから、いいかな、と」


11_YOJI:田中フミヤとの出会い
——クーの終わりの頃から、日本にもテクノが入ってきて、新しいクラブの流れができつつありましたが、ヨージさんはどう思っていたんですか?
「フミヤとかが急に出てきて、新しいことをやって、バンバンお客さんも入れていたから、“すごいな、かっこいいな”と思っていたよ。こっちも負けてられないな、かっこいいことしなあかんな、という感じはあった。フミヤも、“発信したい”と思う人だったと思うよ。すぐにレーベルを始めて、どんどんレコードをリリースしていったから。これが一番正しいやり方だったと思うよ。レコード買って皿まわしているだけなんて、“そんな古くさいDJスタイル、いつまでやっているねん”という感じだった。“何とかナイト”って言っても、レコード変っているだけやん、みたいな。だから、フミヤのデビューは革命的だったと思う」
——昔のDJの方が、もっと面白いことやってましたよね。
「そうやな。今みたいに機材がなくても、テープを切り貼りしたりして、自分独自のミックスをつくったりしていたよね」


12_YOJI:初の海外DJ
——ヨージさんの初の海外でのDJは、どんな感じだったんですか?
「ずっと前に、ハウスは本場ではどんな感じなんだろうと、ニューヨークに行ったことがある。そして現地の人に、マーシャル・ジェファーソンがやっていたレッド・クラブだっけ?」
——レッド・ゾーンですか、デヴィッド・モラレスのクラブですね。有名ですよね。
「そうだったかな? そこに連れて行ってもらったら、お客さんが誰もいなくって、ポツンと一人でフロアに立っていたら、従業員の人がパイプ椅子をもってきてくれた(笑)。その現地の人が、“もう一つおもしろいクラブがあるけど、私は行けないから、一人で言って”と言われて、ヤバいエリアで朝4時からやっている非合法のパーティー<セイブ・ザ・ロボット>に行った。そうしたら、日本人がDJをやっていて、808ステイツの「Pacific」をかけてたね。こんなかっこいい曲あるんだ、と思ったな。でも、ニューヨークに行って一番感動した音楽が、マンチェスターの音楽ってな(笑)」
——そのときは、ニューヨークでまわしたりしたんですか?
「全然。観光で行っただけ。海外で初めてまわしたのは、DOS OR DIEからレコードをリリースしたとき、ミュンヘンでやっていた音楽見本市みたいなところでだね。四つくらいフロアがあって、僕はDOS OR DIEがプロデュースしていたフロアの最後にまわしたんだけど、メイン・フロアがスヴェン・ヴァスで、お客さんが全部そっちの方に行ってしまった。僕の方には、お客さんが一人か二人しかいなくなって、15分くらいしたら警備の人が来て“もうお客さんいないでしょ、終わるよ”って止めさせられた(笑)」
——辛いデビューでしたね(笑)。
「そのときスヴェンのDJを初めて見たけど、ものすごくかっこよくって、“これやな”と思った。DJブースが、大統領の演説で使われるような小さな台で、それだけが大きなステージの真ん中にポツンとあって、手元も何も見えなくて、たまに手拍子するだけ。で、お客さんがウワーッ!となる」
——書記長みたいですね(笑)。
「そうそう。みんながスヴェンの一挙手一投足をずっと見ている感じ。それで両サイドに、スヴェンにそっくりな格好をした人が二人ずつ腕を組んで立っていてね。かっこよかったな」
——スヴェンも、ちょっと前はヨージさんの髪の毛みたいなヘアスタイルをやってましたけどね。
「どっちが先なんやろうね」
——どっちが先か、分かんないんですね。
「僕も、スヴェンも、リッチー・ホウティンも、ヒューマン・リーグの頃のレトロなモードに影響を受けていると思うよ。三年前かな、ホテルでチェックインしていたら、ちょんちょんと後ろから叩かれて、振り向いたら、スヴェンがいてびっくりした。“ヨージ、噂は聞いているで”と。“リッチーみたいな毛にしやがって”と言われたから、僕は“違うぞ、触ってみい。これは人工的なレプリカントの毛やぞ。自然の毛と違うだろ”と言った(笑)」


13_YOJI:ダンス・ヴァレー征服
——二回目の海外DJはどこでしたか?
「CHOCI'S CHEWNSからレコードをリリースして、チョッキーさんが“何か一緒につくろう”と言うので、イギリスに行ったときかな」
——チョッキーさんが何もしないから、ヨージさんが怒ったという話ですね。
「そうそう。チョッキーさんがずっと寝ていて、俺は怒って帰ったというやつ(笑)。謝ってきたのは、何年も後やった(笑)。そのときにロンドンのフリッジ(久保憲司註:元コンサート会場、今は有名なクラブ)の横に、フリッジ・バーという小さなバーがあって、そこで“今日お前のDJあるぞ”とフライヤー見せられて」
——勝手にブッキングされていたんですね(笑)。
「そう。だからレコードを持って来てなくて、“レコードないよ、どうしたらいいの?”と聞いたら、そのときチョッキーさんはレコード屋さんをやっていたから、“裏にレコードがあるから、好きなん持っていき、全部あるよ”って(笑)」
——むちゃくちゃですね。
「でも、そのDJのとき、LAB-4のレズは僕のことが気になったみたいで、友達にLAB-4の資料を持ってこさせていた。それでLAB-4のことがインプットされて、(久保憲司註:ヨージさんが初めて行った東京のレジデント・パーティー)を始めたくらいのときに、LAB-4を日本に呼ぶことになった。LAB-4の音がフィットしだしていたからね。そうしたら、LAB-4が“お前、クールやな。イギリスで一緒にやろう”ということになって、初めて僕のツアーを組んでくれた。それが本格的な海外DJの始まりかな」
——なるほど。
「そのとき、LAB-4と三ヶ所くらいまわったのかな。それで、そのときのプロモーターがとても喜んでくれてね。そのツアーを見た<フィーバー>のオーガナイザーが、“次はアストリア(久保憲司註:コンサート会場としても有名。2000人クラス)でやってみないか?”というので、やってみた」
——すごいですね。しかも、ソールド・アウトになったんですよね?
「そうだよ。でも僕がソールド・アウトにしたんじゃないよ。<フィーバー>というのが、人気パーティーだったから」
——でもフライヤーでは、名前が一番上だったんですよね。
「そう。で、そのときプロモーターがいっぱい来ていて、そこからブッキング・オファーが絶えなくなった」
——オランダはどんな感じだったのですか?
「オランダは、ダンス・ヴァレー(久保憲司註:ウッドストック級のビッグ・イベント)が初めてだった。ダンス・ヴァレーのダウヤーという女の子が、僕をダンス・ヴァレーに出したくって、日本まで僕を探しに来てくれてたみたいなんだけど、結局会えなくってね。でも、次の年のダンス・ヴァレーのとき、ダウヤーから仕事を引き継いだクリスティーという女の子から話がきて、行った。ただ、そのときはあまり扱いがよくなかった。フライヤーだと四番目くらいの位置。でも、一回やったらすごいことになって、次年からはずっとヘッドライナーやな」
——すごいですね。僕は、ヨージさんが現在のポジションに行くまで、もっと時間がかかっていたような気がしたんですけど、一瞬だったんですね。
「すごかったな、反響が。“そんなにいけるの、どこまでいくの?”と思ったもん(笑)」


14_YOJI:VIVAとGIGA
——でもリキッドルームでをやり始めた頃は、苦戦しましたよね。どうしてだったんでしょう?
「そうやな。土壌もあるだろうけど、東京というのは難しいところだね。昔からシーンの先輩が、 “大阪はファクトリーで、東京はマーケットやから、東京はでき上がったものをどう売っていくかやよ。東京で何かをつくっていこうと思うのは、難しいんじゃないか”と言っていた。だから、時間がかかったんじゃないかな」
——なるほど。でも、エイベックスからCDが出るようになったことが、いい流れをつくりましたよね。
「ものすごい転機やろな。でも、常に僕の中には日本の流れと海外の流れがあって、非常に混乱することがあったけどな」
——でも、一度火がついた後の日本は凄かったですね。
「うん。でも、日本の人の悪口を言う気はないんだけど、日本人は熱しやすく、冷めやすい。ダンス・ミュージックと共に人生を、という人はほとんどいないと思う。だけど、ヨーロッパにはずっとそういう土壌があるから、何かヴァイブは違ったな」
——でも、リキッドルームで火がついたときのお客さんの盛り上がりは、すごかったですよ。
「すごかったな。アシッド・ハウスが始まった頃みたいな感じやったな(笑)」
——この子たちを見捨てたらあかんな、この子たちのために何かしたらあかんな、と思いましたもん。パンクのとき、パンクはライブハウスから閉め出しをくらっていたけど、絶対にそんな風にしたらあかんな、と思いました。
「SHOKO-Fがよく言っていたんだけど、僕がプレイするレコードや、僕がつくっていた音楽って、東京のシスコ・テクノ店でいうと、レコードの棚に並べてもらえない。その棚の下の段ボールに放ったらかされていたような音楽だった。僕のつくっている音楽って、そういう音楽だった。でも、そういう音楽を好きな人もおっただろうし、待っていた人もいたと思うし、そういう音楽を知らない人も、たくさんおったと思う。レコード屋にはなかった音楽だったから。それが堂々とフィーチャーされる環境になったということは、ある意味で革命やったと思う」
——そうですね。プログレッシヴ・ハウス/トランスの力を半分借りたとはいえ、シスコ・パート2までできたわけですからね。
「“段ボールにあった音楽がここまでになったんよ。ヨージさんのお陰や”と、よう泣いとったよ(笑)」

15_YOJI:テック・ダンスと未来
——日本、ドイツ、イギリス、オランダと、いろんな国でやってますが、各国でどんな違いがあるんでしょうか?
「僕が日本人やから、ヨーロッパと日本の違いをよく聞かれるんだけど、比較しようがないんだよね。国というより、町によって全部違うから。ただ言えるのは、どこに行っても、お客さんは全部いいと思うよ。でもつくり手側の人たちは、“本当にコレ、同じシーンの人間か?!”と思うくらい、国によって全く違うな。おもしろいな」
——そうなんですか。では何がヨージさんに“今、スイスのシーンがおもしろい”と言わせたのでしょうか?
「それは、やっぱり新しいプロデューサーが出てきてたからだね。新しい音を宣教している人にパワーがあるときは、面白いね。スイスの人たちは、イタリアの人たちと同じで、本場じゃない場所でいろんな音楽を吸収して再発信していたところが面白かったな。ポジティブな人たちだから、かっこいいものは何でも取り込んでしまえる。そうしてできたものは、見え方によってはゲテモノに見えてしまうこともあるんだけど、上手く作品にまとまることもある。僕は、そういう音楽を聞くと昂揚するな」
——そのやり方は、ヨージさんのやり方とも似ていますね。
「そうだね。スイスには、イタリアみたいに見るからに売れるパーツを組み合わせていくような商業的な匂いがない。純粋にかっこいいものを組み合わせてつくり直すところは、僕と似ていると思うな」
——今は、興味のある国とかあるんでしょうか?
「国で言うと、今はないな。今は、どの音楽もでき上がってしまっている。だから、トランスだったら、トランスの人たちがトランスという音楽を壊そうとしている。そして、新たにつくり直そうとしている時期と違うかな」
——ジャンルのミクスチャーというよりも、そういう時期なのですね。
「フェリー・コーステンは、ダーティー・トランスとか言っているだろ。よく意味分からないけど(笑)。僕で言ったら、今はハード・ダンスというカテゴライズを壊そうとしている。そうそう、“ハード・ダンスってカテゴライズ、誰がつくったの?”とみんな聞くけど」
——ヨージさんですよね。
「そう。今だから言うけど、僕。いろんな人が“オレがつくった”と言っているから、僕は黙っていたんだけど。人間、飽きたら壊そうとするよね」
——今は、テック・ダンスでいいんですか?
「そう。テクノ・ピュアリストの人に言わせると、テクノじゃないんだけど。でも、僕はいつもそう、ピュアなものにはあんまり興味ないから」
——ハードハウスが流行っているときも、トランスが流行っているときも、ヨージさんはいつも人気があったけど、ハードハウスでもトランスでもなかったですからね。
「常にニューエナジーなり、テック・ダンスなり、新しいキーワードを持ってくるのは、僕が言葉で説明できないから。だから、そういうキーワードで説明するしかない。でも“ニューエナジー・サウンドって何?”と聞かれても、その音楽がどういう音楽なのか細かく決まっているわけではない。その時代時代で分かりやすく説明してあげたいと思っているだけ」
——三枚目のヨージさんのアルバムは、テックな感じになるのでしょうか?
「アルバムに対して、そんなに焦点は絞っていないよ。確かに、今ハマっている音楽はテックなものだけど、アルバム自体にはそういうコンセプトを持っていかないつもりだね。まっさらな気持ちで向かいたい」
——今回のミックスCD『GIGA』は、テック・ダンスということでいいんでしょうか?
「テック・ダンスというのは、僕がつくった言葉なんだけど、別にその言葉を広めたいとは思っていなくって。徐々に広まっていって、その音楽がどういうものなのか何となく分かってもらって、楽しんでもらえるきっかけになったらいいかなと」
——海外などで若い世代のDJたちがたくさん出てきていると思うのですが、どんな感じですか?
「若いDJがたくさん出てきてるよ。でもメインの時間にまわすのは、年寄りのDJやね。若い子のプレイを聴いても、特に何の刺激も受けないけど、その子たちが“何か一緒にやりましょうよ”とアプローチをかけてきてくれるのは、本当に嬉しいね」
——日本からも、そういう人たちがたくさん出てくるようになったらいいですね。
「REMO-CONくらいだもんな。もっとみんな作品をつくっていかないとダメだと思うよ。作品なしでDJするのは、何の武器も持たずに戦うようなものだ。みんな頑張ってください」